辨 の 内 侍
脚注ウイキペディア
弁内侍(べんのないし、生没年不詳)
日野俊基の遺児であり、俊基の官職が「弁」(右中弁)であったことから「弁内侍」と称される。後醍醐天皇の後宮に女官として務め、南朝 随一を誇る絶世の美女として知られていたと伝わる。その噂を聞きつけた高師直が拉致しようとしたところを楠木正行に救われ、そのことを 契機に正行と深い仲となったという。
楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将。楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時・正儀の兄。
南朝左衛門尉・河内守・河内国守護・帯刀舎人。贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小 楠公と尊称される。
内侍を救う
室町時代の説話文学『吉野拾遺』では、日野俊基の娘と伝わる弁内侍という美女との恋愛譚が描かれる。後醍醐天皇崩御後、弁内侍の美しさ を耳にした幕府執事の高師直は、弁内侍が外出せざるを得ないように一計を案じ、輿に乗ったところを部下に命じて拉致しようとした。その 時、たまたま河内から吉野へ向かう楠木正行が通りがかり、弁内侍を守ろうとした。師直の部下たちは、三〜四人で一斉に正行に打ちかかっ たが、正行はこれをものともせず、凶徒らをことごとく斬り捨てた。この話を聞いた後村上天皇は、弁内侍を正行の嫁に下そうと提案したが 正行はかねてより死を覚悟しており、これを辞退した。そのとき詠んだ歌が
とても世に ながらふべくも あらぬ身の かりの契を いかでむすばん
(とてもこの世に長く生きることが出来る身ではない私が、どうして仮初めの結婚をすることなど出来ようか)
県道124号線→ →
208号線→
奈良県道208号 山陵石川線
奈良県橿原市菖蒲町を起点とし、同市石川町に至る一般県道
下ツ道・上ツ道・中ツ道 と並んで古代大和盆地を南北に縦貫するようにつくられた幹線道路の一つです。そのつくられた時期は、
明らかにはなっていませんが、「日本書紀」に「上・中・下ツ道」のそれぞれの名が記されています。また、
奈良盆地全域に条里制がおかれた際にも縦の基準線となり、現代の行政界や大字界に大きく影響しました。
高 師直(こう の もろなお)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に側近として仕えた武将、官僚、政治家、歌人。正式な名乗りは、高階 師直。
参考文献『吉野拾遺』(よしのしゅうい)
南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集。二巻本と三巻本とがあり、後者は『芳野拾遺物語とも称する。二巻本で注目すべき説話としては、
高師直が弁内侍の強奪を図った話(上巻9話)、楠木正儀への復讐を果たそうとした熊王の話(下巻16話))がある
室町時代
日本の歴史において室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代を指す。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。
南朝とは
日本で、(1336)に後醍醐天皇が吉野に移ってから、後亀山天皇が京都にもどり南北朝が合体した(1392)までの57年間、吉野の南朝(大覚寺統)と、足利氏の擁立する
京都の北朝(持明院統)とが対立して争った時代。 奈良県五條市西吉野町賀名生(かなう)に皇居跡がある。
北朝とは、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家や大覚寺統を含む皇族が支持した、持明院統の朝廷である。
←赤枠は石川村 その南側は菖蒲村
↓
正行辞世の句
返らじと かねて思へば あづさ弓 なき数にいる 名をぞとゞむる
弁内侍は正行の戦死を受けて出家したと伝えられており、吉野の如意輪寺にある至情塚は、この出家の際に黒髪の一部を埋めたものとされている。
妹背山(いもせやま)
奈良県中部の吉野郡吉野町上市の東方にある2つの山の総称。吉野川を挟んで相対する孤立丘陵で、北岸の山は
妹山(260m)、南岸の山は
背山(272m)である。
(浄瑠璃・歌舞伎の『妹背山婦女庭訓』は、天智天皇は病に冒され盲目となり、政務を執ることが適わない。そのすきを狙った
蘇我蝦夷は、中臣鎌足に謀反の濡れ衣を着せて失脚させる物語等 本題の辨の内侍 とは別の物語です)
ただし【文楽劇場を見よう】のページ妹背山女庭訓の注釈には
妹背(いもせ)は、愛し合う男女、夫婦のことを指す古い言葉です。
妹が女で、背が男になります。と書かれていました。琵琶曲『辨の内侍』の前置き文章では、大変参考になりました。